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普代水門は岩手県下閉伊郡普代村を流れる普代川の河口(宇留部)に建設された防潮水門で、昭和48年度に岩手県の発注により当社が詳細設計を行った施設です。
平成23年3月11日14時46分に発生した「東北地方太平洋沖地震」では、水門機能が発揮され住宅地への津波の遡上を防止しました。
普代村では明治29年に発生した「明治三陸沖地震津波」で多くの犠牲者が出たことを踏まえ、それと同程度の津波から村を守れるように設計条件が決められました。想定された津波高は約15mであり、この高さが水門の天端高とされました。さらに、津波が水門に衝突すると重複波が生じ水位が上昇することを考慮し、その波高を21.6mとして設計を行いました。
普代村の位置
ゲート | 鋼製シェル構造ゲート、スライド形式 径間長20.0m、有効高4.5m、4門 |
カーテンウォール | PCポストテンション方式ボックス桁 桁長24.9m、桁高10.22m、4連 |
設計水位 | 計画津波高T.P+15.5m(明治三陸沖津波高) 重複波高T.P+21.61m |
海側からみた水門の全景(平成23年4月18日撮影)
当社では現地調査を実施し、水門の被災状況や津波の痕跡把握等を行いました。それによると、普代村付近の津波の大きさは設計対象とした明治三陸沖地震津波とほぼ同程度であったと推定されます。津波の一部は水門の天端を越えて越流しましたが、大半の津波侵入を防止し、普代地区での人的被害はなく、浸水被害を最小限に食い止めることができました。
右岸から左岸側を撮影(平成23年4月18日撮影)
この被害防止効果は多くのメディアで報道されました。
① 津波の大きさ
地震による機器の故障や停電等のために記録が得られておらず、正確な津波の大きさや水門上部からの越流の状況は不明ですが、現地でのヒアリングによると、津波の第一波は地震発生から約40分後の15時27分に到達し、その後13分間の間で計4回の津波が来襲したとされています。
水門取り付け部の両岸山際の浸食痕を調べると、概ね左岸はT.P.22m、右岸はT.P.17mの高さで津波が押し寄せていたことが分かりました。水門の堤頂は高さがT.P.15.5mなので、左岸側からの越流が大規模に生じたものと推定されます。
越流した津波は普代川を逆流し上流側を浸水させましたが、大半は河川区域内での浸水に収まりました。
H23.3.11津波浸水区域
② 水門の被災状況
地震発生直後から商用電源が停電しましたが、予備発電機が作動し、遠隔操作により水門は津波到達前に閉じられました。また、津波の来襲によっても堰本体、カーテンウォール、扉体、開閉装置等は損傷が少なく、施設の機能は維持されました。
しかし越流した津波により外部電源引込柱の倒壊や4号門扉の操作盤が被害を受けた他、水門を乗り越えて落下した水流により、管理橋は左岸側2径間において桁中央部で断裂され、右岸側でも桁に撓みが生じています。
また、落橋した管理橋の上流側では、護床工として設置されたブロックが被災し、水門各所に設けられた手すりや防護柵のほとんどが流失しました。
管理橋の被災状況
堰上流側のコンクリートブロック(護床工)が流出
③ もし、水門がなかったら・・・・
岩手県では明治三陸沖地震津波などを想定して、水門等の施設がなかった場合の津波による浸水区域を計算し、公表しています。今回、普代村を襲った津波は概ね明治三陸沖地震津波と同程度の大きさであると推察されることから、もしも普代水門が無かったら、あるいは、津波によって普代水門が破壊されていたら、浸水予測図に示されている住宅地域まで浸水が及んでいたものと推定されます。まさに水門が村を守ったといえます。
岩手県による津波浸水予測図(普代村)(抜粋)